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『キャット・ウーマン』

 今さらなんなんだけど、『エレクトラ』を見たらこりゃー書かなきゃいかん、と思ったので、『エレクトラ』の予習として。

 『キャット・ウーマン』を見たとき、「これは『アメコミ』じゃなくて『レディコミ』だ」と思った。会社では何をやってもうまくいかない、そして自己主張のまるでできない(名前がペイシェンス=しのぶ!)が、会社の花(お蝶夫人?)に憧れ、葛藤があり、そして最後は共鳴するものを感じる…なかなかこうした作品に予算をとってもらえる機会はないから、この作品は「世にもゴージャスなレディコミ」としてそれはそれで良かった。

 ただ、キャット・ウーマンが心の奥に抱える悲しみを描くには、このスタッフでは最初からムリという感があった。『ヴィドック』の監督で今回がハリウッド初進出のフランス人PTF(ピトフ)は、もともとスタイリッシュな映像がウリ。『ヴィドック』を見るかぎり、彼は心理描写などまったく興味なさそうだから、誰もこの映画にそうした側面を期待していなかった、ということだ。

 この映画がレディコミ、つまり女性映画だったのだとしたら、どうして女性観客の共感を得られるようにその心理を描きこまなかったのだろう、と思うが、もし、それができながら、SFXや画面のスタイリッシュなんて、いない(唯一思いついたのが『テルマ&ルイーズ』のリドリー・スコットだが、彼を雇うには予算が足りない(笑)まあようするに、玉不足なわけだが、、それは、ハリウッドがこのような映画の製作を二の次三の次にしてきた結果なのだと思う。戦う女とその背後にある彼女たちの心の痛み。アメコミのヒーロー達が繰り返しエディプス・コンプレックスの文脈の中で描かれるのに比べて、彼女たちの心の宇宙は、スピン・オフされても、結局平板なままなのだ。

 その点、『バットマン・リターンズ』の監督をティム・バートンが担当したということは、奇跡に近いことだったのではないかと思う。キャット・ウーマンをキャット・ウーマンたらしめたのはティムの力である。
 『バットマン・リターンズ』の中でキャット・ウーマンがなぜキャット・ウーマンになったか覚えておられるだろうか。変身前のウーマンが仕事も恋もうまくいかないイケてない女の子(名前失念)だったのは本作と同じ。しかし、彼女がキャット・ウーマンに変わる寸前(それはクリスマス休暇の前日のことなのだが)、母親から電話がかかってくる。「あんた、仕事はどうなの? 彼氏はできたの? え、だめ? あなたって子は、どうしていつもそうなの?」 クリスマスにも彼女を受け入れる家はない、自分には安全な場所はない。その瞬間の絶望なのだ、彼女をキャット・ウーマンに変えるのは。身体のなかで膨れ上がった怒りは彼女の毛を逆立てさせ、クローゼットの服(それは、彼女の低い自己評価を押し上げるための、なけなしの財産だった)を引きちぎり、彼女の思うままに縫い始めるのである。ティム・バートンは男だが、女のキャット・ウーマンに向かっても、その視線は男の登場人物にむせる態度とかわらない。彼十八番の「おとなはわかってくれない」節を炸裂させる。その結果として、多くの女性(とくに摂食障害系の女性必見)はもちろん、男女の紅涙をしぼるキャット・ウーマン像が出来上がったわけだ。

 ピトフ版のキャット・ウーマンでは、そんな家族のバック・グラウンドは登場しない。好みが分かれるところかもしれないが、私は、この家族問題をはぎとってしまったことは、今回の『キャット・ウーマン』で「凶」と出たとみた。
 そして、その結果がもっとも大きくでたのは、ハル・ベリー演じるペイシェンス・フィリップスではなく、シャロン・ストーンが演じたローレン・ヘデアである。あれでは、ローレンがただの若さに固執するバカな女に見えてしまってお気の毒だ。美しさ、若さにこだわるのは女の心が誰でもかかえている問題なのに、あれでは女が女に共感できない。
 もしも、ローレン・ヘデアに、化粧品メーカーの創業者である母親がいた、という設定があったらどうだったか。その母親が、ローレンに、「女は美しさと若さが命、美しさと若さを失ったら生きる価値はない」と毎日のように吹き込んでいたら? 有毒物質の入ったクリームに手を伸ばすローレンの脳裏に、そのときの母親のセリフがフラッシュバックして思い浮かんでいたら? レディコミとしてずっと面白くなっていたと思うけどなあ。レディコミというのは結局少女マンガから派生したものであり、その少女マンガのお家芸は「母から愛されない娘」なのだからね。
by ropponguimovie | 2005-04-03 18:08
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