『エレクトラ』

 『キャット・ウーマン』のときにもそう思ったのだが、次々とアメコミが映画化されていく中、主人公が男の場合は、フィルム・メーカーたちは彼の心の葛藤(おもにエディプス神話になぞらえた)を丁寧に描いて観客の共感を得ようとするのに、主人公が女になってしまうと、どうしてこうもぞんざいになってしまうのだろう。彼女たちの心の成長物語を描くことに取り組もうという意思は、私には感じられない。
 なんだか、アメリカの女子プロレス(基本的に男性プロレスの前座として扱われ、「お色気コミックパフォーマンス」であっても「格闘ドラマ」にはなりえない)を見せられている気がした。『エレクトラ』という、「エレクトラ・コンプレックス」から名をとったヒロインを描いてさえそうなのだ。

 映画『デアデビル』の中のエレクトラは、大海運王の娘であり、彼女の武術能力は父親を守るために発達した。心理学用語で言うエレクトラ・コンプレックスとは、いわゆる「娘のファザコン」、父親を守ってあげなければという気持ちのままに、(ときにはあまりその価値のない)父親から、いつまでも離れないことをいう。その意味では、『デアデビル』のエレクトラはすっかり父親にご奉仕しており、まあ「エレクトラ・コンプレックス」といえばそうであった。

 しかし、だ。ギリシャ神話のエレクトラの物語をさぐっていくと、さらに面白い話にぶちあたる。そもそもエレクトラはなぜ父親を守ろうとしたのか。それは、エレクトラの父、アガメムノンが戦争に出かけている間に、母親クリュタイムネストラーがアイギストスと通じてしまうからである。神話では、クリュタイムネストラ―はアイギストスと謀ってアガメムノンを殺し、エレクトラを親戚に預けてエレクトラの弟を殺そうとする。エレクトラは、父と弟のために母親に立ち向かう「戦う娘」なのである。

 これだけでも物語としてじゅうぶん面白い。しかし、そこに女の視線を取り入れてみれば、このギリシャ神話、けっこうゆがんでいることに気がつくだろう。
 なぜクリュタイムネストラーはアイギストスと通じたのか。それは、アガメムノンはクリュタイムネストラ―は夫を殺した毒婦であるが、さんざんその存在を夫に無視されてきた「文句のいえない女」であり、クリュタイムネストラ―の姦計は夫に「あなたは私を見てくれない、家庭をかえりみてくだない」という「くれない族の反乱」なのである。
 しかし、娘・エレクトラには母親の悲しみは理解できない。彼女に見えているのは鬼母としての母親の姿でしかない。

 ハリウッドの物語が「エデンの東」をはじめとして実にしばしば聖書神話からプロットを借りているのは周知の事実だし、それは全然悪いことではないと思う。私が異様に感じるのは、だからこそ、あれだけ「面白い物語」を探して血眼になっているはずの彼らが、なぜ、この複雑で面白い物語だけを、すっぽり無視してしまうのかということなのだ。『スパイダーマン2』のピーターとハリーなら喜んで見られる敵味方の対立構造が、女同士ではそうはいかないのはなぜか。「父のために母を憎む娘」という悲しみを、製作者が誰もひろいあげてやらないのなぜか。は製作者達が「家族内で母と娘がもめないでほしいと思っている」からとしか、思えないんですよね。
 せっかくタイトルを「エレクトラ」と冠してまで描くなら、もっと面白くできるはずのスピン・オフねたがたくさんあるのに、どうしてそれらを全部無視してプロットを組んでしまったのだろう。
その結果として、誰に見せたい映画かわからなくなってしまったように思えるのですが。

『007/ダイ・アナザーデイ』に出ていた韓国系のウィル・ユン・リーはスキ。

(エレクトラ・コンプレックスについては、こちらを参考に書かせていただきました)
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by ropponguimovie | 2005-04-03 18:14
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