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『メリンダとメリンダ』

 ウッディ・アレン最新作。
 
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by ropponguimovie | 2005-04-27 07:54

『あした元気にな~れ! 半分のさつまいも』

 林家こぶ平(現・正蔵)の母、海老名香葉子さん原作の、彼女の終戦体験をもとにしたアニメ。戦後60周年記念作品。

 本編上映の前に海老名さんのご挨拶が映し出されたのだが、それによると、海老名さんがこの作品で訴えたかったのは、「第一に親の愛の尊さ、第二に戦争の悲惨さ」であるいう。海老名さんについては、他の場でも、「親の愛」についての言及が多く、それは私の「なぜ?」という興味をひくものであった。かなり以前のことだが、新聞の「介護」をテーマにした対談(なにか介護関連会社の広告記事であった)で、「私は、介護が必要になったら子どもに面倒みてもらいます。育てたんだから、当然です!」とかなり強い口調でいいきっており、「決め付けるのは危険」という対談相手(外国人の女性)のことばに耳を貸さない様子が掲載されていたのが印象に残っている。

 そこまで「訴えたい」という「親の愛」だが、だが私には、「親の愛」って尊いな、という気持ちにはならなかった。むしろ尊いと思ったのは、「私は親に愛されて育ったんだ、だから強く生きていくんだ」という、「かよちゃん」はじめ子供達の、親の愛を自分の生きるエネルギーに転化する力の強さである。ミルクそのものより、ミルクを消化し栄養として取り込む子どもの「心の内臓」の強さにひかれたのである。

 かよちゃんの親が本当はかよちゃんを愛していなかったということではなくて、東京大空襲で家族6人を失い戦災孤児となったかよちゃんと兄、きいにいちゃんが置かれた環境があんまり苛酷なのである。
 ひきとられたおばさんの家でやっかいものとして、徹底的にいじめられるかよちゃん。闇市での活動を、組合(つーかヤクザ)から利権を吸い上げる標的として狙われるきいにいちゃん。
 戦争がひどいというより、子供達は戦争ですさんだ大人たちから戦争の二次被害を受けている。そういう大人たちというのは平和な時代でも結局困った人である気がしないでもないが、とにかく、かよちゃんは自分の存在を否定され続ける。かよちゃんにとって、「かつて親が愛してくれた、愛し合える家族がいた」という記憶が、自分を肯定する唯一最後の砦である。本当にそれがなかったら生きていけなかったかもしれない。
 だから、私が海老名さんのことばを翻訳するとしたら、「この映画で訴えたいことは、『自分を肯定するエネルギーのすばらしさです』ということになるのだが、それが、海老名さん流にいうと『親の愛』のすばらしさです」ということになるのかもしれない。
 実際、「自分を肯定するエネルギー」というのは、自分でゼロから作り出すのはなかなか大変なもので、たとえ間違ってもいいから『親から愛された』と思っちゃった方がラクに手に入れられる気がする。

 もう一つ、海老名世界観から感じるのは、「土地への執着」。
 これは、親がマイホーム神話に振り回された世代としては結構重ったるい価値観なのだが、彼女だけでなく多くの日本人にとって「土地=家族=愛=生きるエネルギー」がいかに分かちがたく結びついていたかということを今回あらためて感じた。かよちゃんのおば夫婦が、かよちゃんの実家だった本所の家を黙って売ってしまうシーンでは、土地の喪失=かよちゃんの存在の否定であるということがしみじみ伝わってきて胸が痛む。
 先週、「NHKスペシャル」で三菱地所がNYロックフェラーセンターの買収に失敗して撤退したプロセスを見たが、土地と「生きるエネルギー」は必ずしも結びついていず、単なる「金融商品」でしかない国での失敗は、日本人が皇国史観の次にもった世界観の崩壊だったのだなあ、と思った。日本にとって「戦後」の終焉は、実はバブル崩壊だったのかもしれない。

 焼け跡にバラックを建ててやっと住む人々の様子は、ほんとうに貧しくて、「あか」の匂いがするようだった。「日本ってこうだったんだよなあ」。自分の中に、今でも「豊かにかっこよく」生きることを恥ずかしく思う遺伝子がある。最近はすっかり忘れていた、もしかしたらもうなくなったかもしれないと思っていたその遺伝子が、自分の中で小さくうずいた。

 難点を一つ。セリフの言葉づかいがちょっと変です。

2005年7月2日、東京都写真美術館にて公開
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by ropponguimovie | 2005-04-27 07:43

『アルフィー』

 40年前のマイケル・ケイン主演のリメイクだそうだが、ちょっと気になってウェブで調べてみた。予想どうり(?)、40年前のマイケル・ケインは(スチールで見るだけだけど)ものすごーくセクシーでスケベな色男だった。『愛の落日』で見せたマイケル・ケインの好色じじいぶりは、昨日や今日身に付いたものじゃなかったのだ。『オースティン・パワーズ』のお父さんであるところのマイケル・ケインと、『インディアナ・ジョーンズ』のお父さんであるところのショーン・コネリーは、ハリウッド(イギリス?)きってのエロじじいの双璧だったんですね。

 さて、ジュード・ロウ主演でリメイクされた本作だけど、見て24時間たっても「これでよかったのかなあ?」という感じが残っている。
 その、マイケル・ケイン主演のオリジナルでは、マイケル演じるアルフィーは、女を落としても泣かせてもものともしない、場合によってはそれでも女から愛されてしまうアンチ・ヒーローであるらしい。今回ジュード・ロウにオファーが来たさい、ジュードのガールフレンド(本作で共演し、のちに婚約を発表したシエナ・ミラーだと思う。ちなみにシエナは、アルフィーと自分が演じた恋人のひとり、ニッキーとの関係を「共依存よね!」といいきったらしい)は、マイケルのアルフィーがあまりにひどい男だったので、不快感を隠しきれなかったということである。

 そういうわけで、あるいは時代の要請も手伝ってか、このたびのアルフィーは、女を次から次へと変えるが、最後には何ものも得られない、かなしいナルシスト、として描かれている。
 しかし、今度のアルフィーは、そんな「ダメ男」に見えないのだ。セクシーであると同時に彼は残酷な男ではない。だから、そんなに悲しい男に見えない。
 
 マザー・テレサは、「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」といったが、私の感覚では、愛って、「ケア」だと思う。注意をはらうこと、無関心ではないことからはじまって、「かまう」ことであり、(I don't care=かまわない)の反対、世話をすることであり、大切にすること(take care)である。子どもを車内に置き去りにしてパチンコに興じてしまう親はcarellesであり、carellessが多い男は女に愛想をつかされる。

 でも、今回のアルフィーは「ケアレス」な男ではない。たった一度の失敗が大きな不幸を招いてしまう事件は起きるが、それ以外のシーンでは、彼は実に注意深く、女にたいしてまめまめしい。「今日もすてきだよ」、「その服似合うよ」。営業トークといえばそれまでだが、金をもらってこういうことをいうのが仕事のホストでさえ、気がつかなければおせじもいえない。それは、「金をもらったからいう」「ごほうびがあるからいう」という以前の、注意能力の問題であるはずだ。

 つまり、ジュード・ロウのアルフィーは、愛を知らず孤独をさまようというより、女性観客にたっぷりセクシーさを見せた後、かわいそうな目にあう、なんだか「割の合わない人」に見えてしまうのだ。宣伝会社の人が、男性のメディアの人に「これは、本当は男性に(教訓として)見てほしい映画なんです」といっているのが聞こえたが、たいていの男は、ここまで女にケアすることなんてない「プレイボーイ以前」というべきではないかな。
 
 だから、この映画は、女性観客が、「あーん、ジュード君、かわいそうねー(私が助けてあげる?)」と思ってみたほうがいい映画ではないかな。ジュード演じるアルフィーが、終始、画面に向かって一人称で心情を告白する構成になっているのも、「プレイボーイの才能にたけたぼくちゃん」の舞台裏を見ているようで、女の敵にはなりえないつくりである。

 そして、ジュード・ロウは本作の中で最高級にセクシーだ。冒頭、映画はアルフィーが自分のフラットで目をさますシーンから始まる。赤い毛布から、ジュードの足の裏がのぞいている。
 そのシーンに私は「どきっ」とした。こういう細かいシーンに始まって、一事が万事この調子なのである。朝日のなかで肌を通して透ける腕の毛、スーツにさりげなく巻いたマフラーのくしゅくしゅ具合…。足の裏のシーンに続いてベッド・サイドに置かれたスーパーマンのフィギュアをの赤いパンツをクローズアップしたのは笑いましたけどね。
 やばい、こんなに細部を覚えているということは、それだけジュードにクギづけにされちゃったということ。彼が女をケアする男であったように、観客(女)も、彼をケアする。それは、不毛ではなくむしろ愛だと私は思うんだけどな。
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by ropponguimovie | 2005-04-23 19:57

『ウィンブルドン』

 ポール・ベタニーとキルスティン・ダンストがウィンブルドンを舞台に繰り広げる正統派ロマンス・コメディ。
 
 正統派すぎてどうしてこんなのが今まで作られなかったのだろうと思っていたら、秘密は「ボール」にあるらしい。この映画では、俳優がスウィングの「ふり」をし、それにあわせてCGでボールをはめこむという製作方法がとられている。ベタニーとダンストはどちらも細身で筋張っていて、いかにもテニス選手という感じがぴったり(とくにベタニーは、線の細さが現在のパワーテニスの中でいかにも「通じない」という雰囲気が濃厚。フレッドペリーのポロシャツもいかにも技巧派という感じ。『ギャングスターナンバー1』でも着ていたね…どんどん脱線スマン)
 『ロード・オブ・ザ・リング』や『スター・ウォーズ』だけでなく、映像技術の発達は、こんな方向にも行くのね…と感じさせられた。

 一つ印象に残ったのは、ポール・ベタニーとキルスティン・ダンストという二人の主演俳優が、ふたりとも「ブロンド・ブルーアイズ」であったこと。裏をとったわけではないが、こういうのは珍しい。映像その他のバランスから考えて、だいたい、片っ方がブロンドだったらもう一人はブルネット、というふうに配すると思う。
 でも、この映画、つまり、「ウィンブルドン」という舞台では、ふたりの金髪碧眼が、非常に生きるのだ。見渡すかぎり緑のコート、白に統一された選手のユニフォーム、紫とグリーンのジャッジのユニフォーム…そこにあるのは、日本の「相撲」や「歌舞伎」にも通じる、完璧な様式美の世界だ。
 それはときとして差別意識に満ちたものであるけれども、相撲や歌舞伎が美しいものであるように、きれいはきれいだ。そんな発見が、おまけのようについてきた映画でした。
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by ropponguimovie | 2005-04-23 19:12

『皇帝ペンギン』

 プレスの表紙でほこほこくっついているペンギンのひよこたちを見ただけで、クーッ、たまらん! という感じ。
 南極のペンギンを追っかけて撮影したフィルムが8800時間。それを87分にまとめるのは、さぞかし大変だったでしょうね。
 …とはいうものの、演出の方法はちょっと残念だった。「お父さん」「お母さん」「子ども」の声がナレーションをかぶせていくのだが、ごく普通のナレーションでよかったように思う。
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by ropponguimovie | 2005-04-22 13:03

『キングダム・オブ・へブン』

 超大作なのに、「オーランド・ブルーム主演」「リドリー・スコット監督の最新作」という以外、なんにも事前情報がなかった。行ってみたらそれは十字軍の映画で、しかも「十字軍に行ったキリスト教徒は、こんなにバカでした(バカな人もいました?)」という映画だった。何もいえないわけだといってしまえばそれまでなのだが、えらそな言い方かもしれないが、私はこの映画をここ(大メジャー劇場での公開)という形まで引っ張ってきたすべてのスタッフの労をねぎらいたい。この映画の配給は20世紀フォックスだが、フォックスといえば、アメリカ4大ネットワークの中でももっとも保守、右よりといわれる企業なのだもの。なんかこう、「うまく上司をだまして稟議を回した現場」みたいなものを感じる。今なお平和が訪れない、血まみれの聖地、エルサレム争奪をめぐる物語である。

 歌手サラ・ブライトマンのアルバム「ハレム」などにも共通するが、ここに描かれているのはヨーロッパ世界から見た、エキゾチックな魅力をもつ世界としてのイスラムである。砂漠、月、勇気ある戦士と美しさと気骨を兼ね備えた女たち。そうだった、人間は、嫌いだけの存在を決して憎んだりしない、憧れと自分の嫉妬心を刺激される相手を憎むのだとあらためて気がつかせられる。
 戦争シーンでは、キリスト教側とサラセン側が、注意深く対等に描かれる。キリスト教の十字旗が風にはためけば、サラセン側の月の旗も、それはそれは美しくはためく。

 イラク戦争でキーワードとなった「大量破壊兵器」ということばだけど、大量破壊兵器が歴史上初めて登場したのは第1次世界大戦で、それによって、人はきわめてインダストリアルに殺されることになり、その結果、「家族が死んだ」という実感をともなうことができない遺族が続出した。(このあたりは映画『フェアリー・テイル』で、作家コナン・ドイルがオカルトに走った理由としてくわしく描かれている)。
 それまで西洋にしてもアジアにしても、戦争というのは、一対一の名乗りあい、果し合いであり、それは、相手が殺人者であると同時に、弔う人であることを意味した。「なんのだれがし」という身元のはっきりした人間に殺されることによって、殺される側は、それなりの尊厳を保つことができた。
 
 この映画では、戦争というのは名乗りあい、対峙することで、一種相手に敬意を表することが出来た時代の戦いを描いている。仔細では技術力によって大量破壊してしまう部分もあるのだが、和平の議論はトップ対トップによって行われ、戦いには常に宗教色=とむらい色があった。この時代、人はたとえ戦争であってもオートメーション的に死にはしなかったのだ。どうせ戦争で死ぬなら、こういう時代に死にたいなあ、などと私は思ったりした。

 こうした背景をもとに、伝説の勇者(鍛冶屋の息子の貴種流離譚で、最後は鍛冶屋に戻る)の冒険物語が展開される。その最後は勝利ではなく、ひたすら市民の安全である。

 当時のエルサレムを統治するラテン・ローマ王国の当主ヴォードワン4世が、「らい」だという設定で、彼は終始仮面で顔をおおっている。キリスト教、イスラム教双方の信仰の自由を認めたこの理知的な王がカッコいーなーと思ったら、私のお気に入り、エドワード・ノートンだった。さっすがー(←ウソウソ、気がつかなかったくせに)
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by ropponguimovie | 2005-04-21 00:48

『オープン・ウォーター』

 2004年サンダンスで話題となった、こ、こわいよーな映画。
 ストーリーが怖いとのではなく、残酷な実験室を覗き込むような映画。ガイドのミスによって鮫のうようよいる海原に放置されてしまったカップルが、さてどうなっていくでしょう、という、ほんとに身もふたもない映画。
 つまり、この映画の怖さは、作り手が、観客を主人公に全然共感させようとしないで作っているということにある。観客は、彼らと一緒に打開策を考えるでもなく(もう考えようもない絶望的な世界なのだ)、ただ、唖然と彼らの行く先を見守るしかない。
 だから、見終わった後の気分は決してよくない。この映画を見るモチベーションは、まさに「怖いもの見たさ」である。
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by ropponguimovie | 2005-04-13 00:20

『ミリオンダラー・ベイビー』

 アカデミーなんかの情報を見て、「なんで今さら『ロッキー』みたいな映画がそんなにいいのか?」と思っていたら、全然違った。「愛・努力・勝利」の映画ではなく、もっと重苦しい結末が待っていた。

 重苦しさでは『ミスティック・リバー』的なのだが、テーマから言うと、日本で2週間しか(それも最初から2週間と決まっていた)公開されず、週刊金曜日に「奢るワーナーは久しからず」と書かれた『ブラッド・ワーク』に通じるものがあるような気がする。かつて人生を失敗した男が、「血」に近いものによって自分の存在した証をこの世に残そうとする、そういうお話でした。

 にもかかわらず、場内は20分に一回、クスクス笑いがもれた。語り手、モーガン・フリーマンを中心に展開される(彼はクリント・イーストウッド演じるボクシング・ジムのボスのことを、愛すべきだけどちょっと困ったおっさんとしてとらえている)、たくまざるユーモア・センスである。これは、『ミスティック・リバー』『ブラッド・ワーク』にはなかったものである。そして、こうした笑いが、人生をしぶとく生き抜いてきた、成熟を感じさせる。アカデミー賞として評価されたのは、この、まろやかなユーモアあふれる演出ではないかと思う。
 
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by ropponguimovie | 2005-04-13 00:13

『ヒトラー 最後の12日間』

 タイトルに「ヒトラー」と入っているが、ヒトラーが出てくるのは映画の半分ほど。「ヒトラーの人間性を描いた」というようなうたい文句だが、そういう映画には私には見えなかった。にもかかわらず、今まで見たことがなかったタイプの戦争映画だと思った。

 どこが今まで「見たことない」かというと、この映画が延々と描くのは、「負けいくさってこんなにみじめ」ということ。
 戦争を描く場合、戦争肯定の視点で見たときは「自由」「解放」「正義」といったグロリアスな面がフォーカスされ、否定の視点で見たときは、その暴力性や喪失の悲しみなどに焦点があたる。しかし、この映画ではどちらでもなく、負け犬のみじめさを延々と描くのだ。ヒトラー自身、最高権力者=最高責任者だから当然といえば当然なのだが、自殺をとげたのは部下たちの完璧な「自殺サポート」によってであったし、最後までヒトラーと行動をともにしたゲッペルス夫妻は、一緒に行動していた我が子達を次々と殺す(のちに夫妻も自殺)。トップを失い責任転嫁しあう高官たち(まるで逮捕寸前の泥棒集団みたい)、市街戦で次々殺される少年少女兵、見せしめにしばり首にされる共産党支持派、病院ではクスリが足りず、麻酔もなしに手足が次々切断される。つくづく「負けいくさ」がいやになる。

 そう、戦争否定派は、その根拠としていつもその残虐性、暴力性を指摘する。でも、この映画を見て「なぜ、戦争してはいけないか?」と問われたら、「負けるかもしれないから」「負けたらみじめだから」という答えの方がよっぽど有効な気がしてきた。スティーブン・コヴィーのいう、「win-win、さもなくば no deal」って、ほんと、正しい。でも、戦いに突き進む人は、そのとき、負けるなんて全然考えてないし、負けるときは自分より下々の者が傷つくだけだと思っているような気がする。
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by ropponguimovie | 2005-04-12 23:47

『ラヴェンダーの咲く庭で』

 昔、日本に「ドクフレン」という団体があった。「毒婦連」じゃないです、「独婦連」ね。
 「独婦連」というのは、第二次大戦によってたくさんの適齢期の独身の男が死んだために結婚相手のいなくなってしまった年齢の女性達が作った団体のことである。その年代にかぎっていえば、女の数は男の数より60万人も多くなってしまったのだ。結婚できないのが当たり前である。

 独婦連は強い団体だった。当時独身女性への賃借を認めていなかった住宅金融公庫にそれを認めさせ(ちなみ公庫は1980年代まで独身者にはローンも認可しなかった。『家族をもつもの優遇』がこの国の当たり前の制度だったのだ)、最後には独身の女達が入る共同墓地を設立した。
 結婚制度を嫌う私の友人が「いいな、私も入れて」とメンバーにいったところ、「私たちとは『独身』の意味が違うんだから。私たちがどれほど結婚したくてできなかったか、わからないでしょ」と断られたそうである。

 『ラヴェンダーの花咲く庭で』を見てすぐ思い出したのは、この独婦連のことである。
 第二次大戦前夜のイギリスの片田舎。婚期を逸して暮らす年老いた姉妹(ジュディ・デンチとマギー・スミス)のもとに、ある晩、行き倒れの若い男性が転がり込む。ポーランドから渡米途中に船が難破したというその青年を熱心に世話しているうち、姉は発見する、自分がその青年に恋をしていることを。そして、妹も発見する。その姉の気持ちを快く思えず、さやあてをけしかけてしまう自分も。
 年老いても決して消し去ることができなかった王子様願望に、ともってしまった小さな火をめぐる、ほろ苦いストーリーである。

 女には結婚しない自由がある。独婦連の女性達たちも、決して、夫をもてないことにめそめそしたまま人生を終えたとは思えない(彼女たちの生活の多くが独身を謳歌するどころか年取った両親と弟妹達のために働いて終わるものであったとしても)。
 しかし、戦争が彼女たちから奪ってしまったのは、現実の「王子様」ではなく、「夢を見る自由」ではなかったか。「王子様願望をもつ自由」ではなかったか。現実に王子様を求めて生きるのと、、心の中に王子様願望をもつのとでは、まったく別のことなのではないか、この映画を見てそんなふうに感じたのである。

「王子様願望」というのは、女にとって「盲腸」のような存在ではないかと思った。医者が盲腸を「いらないもの」としてすぐ切ってしまうように、フェミニストも王子様願望を「いらないもの」として切り落としたがる。しかし、近年の研究で盲腸が人間の身体の免疫系に大きな影響を及ぼしていることがわかってきたように、王子様願望も、女の心の健康のために、敵視しないほうがいいものなのではないか、と。

 ちなみに、独婦連をグーグルで検索すると、大宅文庫の見出しでしかもうその名前を見つけることはできなかった。独婦連はだいぶまえにその活動意義を終えているからである。もう誰も知ることのなくなってしまった、小さなお話である。
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by ropponguimovie | 2005-04-03 18:20