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『バッシング』

JUSTの会報に寄せられた斉藤学医師の講義録を読んでいたら、興味深いことがあったのであらためて本稿を書こうという気になった。
 この映画のモデルとなったイラクで人質となった三人が帰国したとき、斉藤医師はトラウマのエキスパートとして成田で彼らの診断にあたった。診断は極度の疲労と、急性ストレス障害。それはまあ普通の診断(?)として、斉藤医師は、三人の家族に違和感を覚えたという。ようするに「家族さわぎすぎ、家族が子ども達の人生に介入しすぎ」という違和感だったという。
 テレビの映像は「極端な一言」に全体像を集約しようとする傾向があるので、ふだんからその一言に反応するのは避けているのだが、あのときの家族の様子はたしかに私にも強く印象に残っているのだ。「これはぜひ、撤兵するように日本政府に動いていただいて…」といそいそと発言した家族は、子どものために働ける手段ができたことが心底嬉しそうであるように私には見えたのだ。それを「自己責任でしょ」とたしなめる政治家の姿は、子どもに対して理念であたろうとする「父親役」、「そうはいってもあの子のピンチなのだから」と世話を焼こうとする家族は、「母親役」であるように私には見えた。「自己責任で山に行ったって助けるのに」という、後から出てきた理屈とはまったく違う自己責任論が、展開されていると思ったのである。

 この映画のように、彼らのイラク行きがどこまで、「家族との確執が背後にある個人的な物語」であったのか私は知らない。しかし、この映画の中では、主人公は、息苦しい家族関係からの逃げ場所としてイラク行きを選んだように描かれている。彼女自身もとても生き方がうまいといえた代物ではなく、食べるものはコンビニのおでんだけ、一つの具を一つずつの容器に入れさせ、すべての容器につゆをたっぷりと詰めさせる姿は、コミュニケーション不全ということばを超えて、社会への攻撃性をもっているとさえ判断できる。戦地のボランティア活動なんてずいぶん瞬時の柔軟な判断能力が求められる仕事だろうに、こんなんで彼女はそこで足手まといにならずにやっていけたのだろうかと、心配してしまうほどだ。
 私がこの映画の映画評で海外評として「なぜ日本でバッシングされたのかわからない」というものをのせていたが、むしろこの映画はバッシングされてしかるべきなような彼女の姿を描いている。それは事実とは違うかもしれないが、この映画ではむしろイラクは「救い」として描かれている。「みんな私を受け入れてくれない、ここよりはまし」と。

 海外の映画評を紹介した日本の記事を読んだとき、「彼らを受け入れなかった日本共同体の排他性が描かれている」みたいなことが書かれていたのを覚えている。これは、本当に海外メディアがそう思ったとしたら驕りだと思うし、日本のメディアがそう思ったのだとしたら自虐だと思うが、とまれ、映画は決して日本社会のみの排他性を告発するものではなかった。協奏能力の低い個人、協奏能力の低い小さな共同体(家族)、協奏能力の低い大きな共同体(地域)がもたらす齟齬、そして最終的な融和を描いているのだ。

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by ropponguimovie | 2006-07-29 19:39
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